【第20回】入学と同時にデビュー。長く続けてきた芸能活動をこれからも。
芸術学部 演劇学科 演技コース
昭和53年卒業
有限会社ブランニューステーション代表取締役 松原愛氏
歌手・旭川観光大使 |
- 本学の芸術学部からは芸能界へ進出された方々がたくさんいます。松原愛氏もその一人で歌手デビューした後、女優として活躍し、テレビ、ラジオ、映画そしてライブと幅広く活動の場を広げてこられました。そんな芸能活動の一端を交えながらお話しいただきました。
- 進路はどのように決めて進みましたか?
- 高校までは京都にいて医者になることを目指していました。高校3年生のときに少年マガジンが募集した「愛と誠」のテーマを歌うオーディションに息抜きで応募したのが受かり、全国大会で優勝してしまいました。
これが上京して芸能界へ行くきっかけになりましたが、父親は当然反対するだろうと思っていました。
ところが父親は反対せず、代わりに学問を続けて大学へ行くことを条件として出されました。それならと芸術学部を受験して進むことが決まりました。
その年は入学とデビューがほとんど同時です。当時はレコード会社に所属しながら大学に行くというのはレコード会社も認めないことが多かったのですが、デビューまでの事情をレコード会社も理解してくれて芸能活動と大学の両方へ行くことが出来ました。ちょうど芸術学部にはキャンディーズの伊藤蘭さんや志垣太郎さんが2年位上で在籍されていましたね。
歌のほうはデビュー曲の「愛と誠」の主題歌がヒットしました。
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デビュー曲の「愛と誠」 |
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映画「将軍」に出演していたころ |
- 現在の仕事についておはなし下さい。
- 歌手として歌ったり、イベントを手伝ったりしています。夫は作詞の仕事をしていますので、CDを作りたい人たちにオリジナルの作詞・作曲をして自作のCDを作るお手伝いもしています。
10年少し前ですが「モヤモヤ病」という脳梗塞の一種にかかり手術を受けました。頭の手術ということで日常生活を取り戻すためにリハビリが必要になり、夫がリハビリに最適という116のテンポで「横浜e-じゃん」という曲を作ってくれました。この曲を歌うことでリバビリによくきき、健康も回復していきました。病気で数年間のブランクを作ることになりましたがこの曲は歌手として再デビューのきっかけになりました。
それと、北海道の旭川市で生まれたことから20年程前から旭川観光大使をつとめています。旭川のことは私の「歌ってチャッピー」というブログでもPRしてますよ。
- 学生時代はどのように過ごしましたか。
- デビューと同時の入学でしたので、2年生まではテレビ、ラジオなど芸能活動が忙しく、寝るひまもないほどでした。地方に行くときも今と違って新潟へ10時間かけて行ったり、東北から夜行で半日かけて戻ってきて、その日に大阪へ行くといった生活です。
そんな中でもオール日大の体育大会には絶対に参加しなければとスケジュールをあけて参加しました。足は早かったので短距離に出ましたよ。
当時芸能人の運動会といった番組もはやっていてその時も短距離で出場していました。女子では林寛子さんや木内みどりさんたちが人気でしたが、西城秀樹さん、野口五郎さん、郷ひろみさんたちは絶大の人気で、彼らが出ると声援で会場内の音がなにも聞こえなくなるくらいでしたね。
映画では大林宣彦監督の最初の映画「HOUSE」に出させていただいたのも思い出です。池上季実子さんが主演で大場久美子さんや神保美喜さんたちと共演した映画です。大林先生は監督になる前はCMディレクターをされており、TOTOのCM「お魚になったわたし」に私が起用され、そこで大林先生と知り合った縁で「HOUSE」に出演しました。
この間、大学へ行くのもままらないといった状況でしたが、演劇科の先生に俳優や声優で有名な久米明先生もおり、大学にこれない時にはその間にした仕事をレポートで提出しなさいと言っていただき、2年生まで両方の道を無事に過ごすことが出来ました。
ようやく芸能生活がおちついてきて大学へ普通に行けるようになったのは3年生からでした。このときからようやく学生らしい生活も送れるようになったのですが、当時私は麻雀ができ、女子で麻雀が出来るということで大学の門の前で先輩たちに捕まってそのまま雀荘に連れて行かれるということもよくありましたね。
- 校友会との交流はいかがですか?
- 神奈川県支部の総会に出席するようになったのも大学で行われたOB会に参加したのがきっかけで教えてもらいました。日大にはいろいろなところに卒業生がおり、またそれらを繋いでいただける方がいるのでありがたいと思っています。
芸術学部では演劇学科の人たちで作った演劇江古田会という私的なOB会にも入っています。ここは他のOB会では想像出来ないでしょうが、名簿は入学年度で作られています。ですからここでの私は昭和49年入学の松原です。演劇江古田会は芸能活動をしている人ということが入会条件になっていますが、この会では大学を中退する方が偉く、卒業生の方が少ないといった芸術学部ならではの独特の会です。そんな具合なのでみんな入学年度が名簿に書かれているわけです。演劇江古田会では今も舞台などがあると皆で参加したりしています。
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今朝校友の関係者から届いたばかりの2升5合の日本酒と |
- これからやりたいことをお話し下さい。
- 芸能活動はづっと続けていきたいと思っています。歌手、女優、レポーターとマルチに活動していましたが、当時は事務所からいろいろ出来ることよりも何か一つを極めるようにと言われていました。今は逆にタレントにはマルチに活躍出来ることが求められています。私は昔やっていたことなのでそれが生かせる芸能活動をしていきたいと思っています。
歌手として再デビューもしていますので夫と二人で演歌を広める活動もしていきたいと思っています。
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再デビュー曲の「横浜e-じゃん」 |
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演歌「ふたりの時計」 |
- 訪問を終えて
- ご主人は作詞家とお話しされていましたが、「昭和枯れすすき」などのヒット曲を作詞された
山田孝雄先生です。結婚されて30年以上とのお話しですが今回のインタビュー中にもときどきご主人も顔を出され作詞についていろいろなお話しを聞かせていただきました。ご夫婦で音楽、歌という共通のことを長く仕事にでき、一緒に続けられるということをうらやましく思いました。
これからも応援していきたいと思います。
松原 愛氏紹介
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