【第56回】患者さんと家族に寄り添える医療を目指しています
医学部 昭和58年卒業
大学院医学研究科博士課程 昭和62年修了 医学博士
日本大学客員教授
JCHO横浜中央病院
病院長 川田 望氏
横浜の中心部に位置し中華街に隣接する横浜中央病院は、長年にわたって地域医療に貢献してきた総合病院です。今回は昨年(2023年)4月に病院長に就任された川田望先生にお話を伺いました。
医師を志したきっかけを教えてください。
子供時代を鶴見区の東寺尾で過ごしましたが、父の転勤の関係で高校は都立新宿高校に進学しました。新宿高校は自由な校風で服装も自由、部活もやり放題で、私は柔道部と星が好きだったので天文部にも入っていました。
高校2年の時、三者面談で担任の先生から「川田、お前将来どうするんだ」と言われたので「天文に行きたい」と応えると、「星じゃ飯食えないぞ、考えろ」と言われ、いろいろと考えていたら、母親から「じゃ医者になれば」と言われ、方向転換して1年浪人して日大医学部に行きました。
当時の天文部の仲間は、その後、中学の理科の先生になったり、東大の理学部に進み、天文学の研究者になっています。彼らを見ていると初志貫徹で立派だなと思う。でも、あの時に担任の先生に医者になればということを言われて良かったなとも思います。
実は母方の祖父が岩手の田舎で開業医をやっていました。田舎なので患者さんから診療代金の代わりにお米や野菜、山鳥などを持ってきてくれたそうです。それで子供の頃から母親に「望、お前、医者になれば食い物に苦労しないぞ」と言われて育ったので、母からの影響もあったかもしれませんね。
どのような学生生活を送られたのでしょうか。
当時、医学部長だった小林茂三郎先生は、「いいか諸君、ここに入ったら勉強はともかく仲間をつくれ。仲間をつくるにはどうすればいいか、クラブに入れ」とのことで、ワンダーフォーゲル部に入って、ひたすら山歩きしました。医学部では1、2年のときにとことんクラブをやるわけですよ。周りの人間も柔道やテニスやなんだとクラブ活動が盛んでしたね。
3年で実習が始まり、心を入れ替えて一所懸命勉強した覚えがあります。なかでも病理学の桜井教授に勉強の仕方をいろいろと教わって医学が楽しくなりました。 4年生になると1年間は座学でした。朝8時半から夕方5時までひたすら座って講義を聴く。非常に印象的な学年でしたね。
それで5、6年が臨床実習でした。初めて白衣を着て病院に行く訳です。教員から血圧を測ってくれと言われて一所懸命測るんです。臨床実習では緊張しっぱなしでしたが、そこでやっと医学部に入ったんだなと実感しました。
泌尿器科の先生になられたきっかけは?
当初、僕は内科に行こうと思っていたんですよ。内科なら幅広く食えるだろうと思って。それが変わったのが臨床実習です。臨床実習で泌尿器の教授とスタッフが非常に熱心で、レポートを書かせてわかるまで指導する。とても厳しかったですが、それがきっかけで泌尿器って面白いなと思うようになり、この分野での専門を深めようと決めました。
6年の暮れに「僕は内科じゃなくて泌尿器に行きたい」と親に言ったら「え、泌尿器?」と。その当時はあまり良いイメージではありませんでした。親に時間をかけて説得した思い出がありますね。
医学部ご卒業後の進路をお聞かせください。
僕は大学院に行きたかったんですよ。大学院に行けば早く学位もとれるし、早く開業できるだろうという気持ちがあったので。目指すのは開業だったんです。開業の一番の近道は学位を取ることでした。それで大学院に行きました。そのころは研修医制度がなく、いきなり現場に出ます。振り返ると非常に良い経験になったし、今では信じられないですが、2年目の医者が「お前一人で、明日からあの病院に行ってこい」と。そこでまったく違う科の人間と混ざりあいながら、懸命になって様々な経験を積みました。患者の接し方とか、その時の経験が非常に役立っています。
それが終わって3年目からは研究科に行き、病理について研究しました。この病理というのが厳格な学問で、自分の印象、雰囲気は一切通じません。なんで診断したのか、根拠を明確にしなければいけない。何がわからないのか、わからなければちゃんと調べてレポートにまとめろと。一年間病理を学び、4年目で麻酔科に行きました。今はどこでも麻酔をかけますが、その麻酔を自分でかけるのです。さんざん麻酔をかけられました。あとは透析も学び、4年間の大学院を終えました。
大学院修了後は、どちらかの病院に勤務されたのですか。
そのあとはお礼奉公をしなければなりません。そこで埼玉の東松山市民病院に3年間行きました。できたばかりの病院でほぼ全員が日大でした。泌尿器科は僕一人でしたので、手術の時などは外科の先生が助けてくれました。その時の院長先生が富永先生というとても面白い先生でした。当時僕はまだ若かったし、おそらく生意気だったし、たぶんやんちゃだったんでしょうね。あちこちでいろんないさかいを起こして、その度にお前ちょっとこっち来いと説教を受けました。その時に患者の見方とか別の意味で指導を受けた覚えがありますね。良い先生でした。3年間東松山にいてお礼奉公も終わったし、そろそろ開業しよう、どこか土地を探そうと思っていたら、「お前、大学に来い」というので日大に戻ったのです。
日大病院でしょうか。
そのあとはお礼奉公をしなければなりません。そこであの頃、日大には板橋と駿河台の2つ病院があったのです。
大学院の時は板橋で、次に行ったのが駿河台でした。駿河台病院には結局33年間いました。それで開業する時期を逃してしまいました。なぜ逃したかというと、臨床が楽しかったからですね。病院では、いろんな手術をさせてもらったし、いろんな研究にも携わらせてもらえました。とくに僕はがんの治療が好きでした。前立腺もそうですが、腎臓がんも治療によってがんが消えていくんですね。腎臓のがんの転移がインターフェロンで消えてしまうとかを盛んにやっていたんですよ。そんなことやっていて、気が付いたらもう40歳になっていました。
医療の第一線に立たれていたのですね。
そのころ教授から、「お前アメリカに行って研究してこい」と言われ、研究員としてコロラド州デンバーにあるコロラド大学に1年間赴任しました。デンバーは、本当に田舎の街で娯楽施設もないし、毎日ロッキー山脈の夕日を見て過ごしていました。他にやることがないので一所懸命前立腺の研究をしていました。1年が終わるころ、まだ日本に帰りたくない気持ちもありましたが、このまま研究ばかりしていると医者でなくなってしまうと思い、帰ってきました。研究資金を勝ち取るための論文が通ったので研究費ももらって、本当に日大には感謝しています。
それで再び日大病院に?
43歳で戻って65歳までの22年間、駿河台病院にいました。
その間の一番のイベントが2014年10月の病院の引っ越しでした。その1年前に部長だった僕が院長に呼ばれて、「あなた明日から副院長だから」「なにやるんですか?」「引っ越しの責任者を担当してほしい」と言われ、周りからは引っ越し隊長だといわれてました。でも楽しかったです。何が楽しいって、当然、物の整理もそうでしょう。あと人員の配置と時間割ですよ。僕はこれが好きなんですね。時間割をつくって、楽しい1年半でした。
新しい日大病院では泌尿器科の部長として、その間副院長などやりつつ10年間働きました。新しい病院はいいでしょうとみんなから言われるのですが、僕はどちらかというと古い駿河台病院の方が人間味が溢れて好きでした。というのは、今は個人情報もあり、新病院は患者の姿が外から見えないように診察のブースもすべて仕切りがあります。医者にしてみれば疎外感があるので、古い病院の方が性に合っていましたね。
その後、横浜中央病院に病院長として赴任されたのですね。
去年の春(2023年4月)、日大病院からこちらに来ました。来た時にホッとしました。
僕は生まれが横浜で、おやじが最後に世話になったのがこの病院なのです。アメリカに行っている最中に親父の体調が悪くなって担ぎ込まれて治療して3年間生きましたので、当時のスタッフには感謝しています。
おふくろも鶴見の自宅からこの病院に運び込まれたことがあります。本来の医療圏は中区、南区なのでエリアが違いますが、しっかり診てくれて横浜中央病院で良かったと思ったのです。おふくろは完治して今でも元気です。一患者としてこの病院で良かったと思っています。この気持ちを大事にしたいです。
横浜中央病院の特長はなんでしょうか。
古い病院ですが、月間340〜350の救急搬送を診ています。それだけ地域医療に貢献していると自負しています。ですから運ばれた方にはこの病院でよかったなと思われてほしいし、たんに運ばれて治療するというだけでなく、今は高齢者が多いですね。運ばれてちゃんと治療したからには、そのあともフォローアップしてあげたい。ですから自宅に帰れるのか、あるいは老健とか老人施設に送るのか、あるいは経済的余裕があれば有料老人ホームに送るのか、見極めをつけてあげないと。いつまでも長く病院にいたのではかわいそうです。見極めをつけるために入院した段階からサポートが入っています。医師だけでなく、看護師、リハビリ、栄養士、社会福祉士が入って多職種によるチームの医療を行うことで非常に早く患者さんの心に叶う医療を行うことではないかなと思っています。
病院長として日頃、心がけていることは?
どれだけ患者さんの心に寄り添えるかでしょうね。患者さんと家族に寄り添えるチーム医療を心がげています。
校友会に向けて何かお伝えしたいことがありましたら、お願いします。
同窓会のありがたさは若いころはわかりませんでした。ここにきて神奈川にはこんな同窓会があるのだと初めて知りました。駿河台病院にいたころは同窓会との関わりはまったくなく地元の医師会とのつながりだけでしたね。今後は、いかに同窓会の意義を若い同窓の方々に知ってもらえるか、そこだと思います。
訪問を終えて
これまで横浜中央病院には度々お世話になりましたが、先生や看護師さんにはいつも親切に診ていただきました。近隣の方はぜひご利用いただけることをお薦めします。
ちなみにこの病院の建物は、京都タワーの設計者で知られる建築家・山田守氏が1960年に設計しました。老朽化のため数年後には建て替えも検討されているようですが、特長ある玄関の庇(ひさし)や丸みを帯びた柱など、近代建築史を語るうえでも貴重な建物だそうです。昔、上映された映画『霧笛が俺を呼んでいる』では、完成当時のモダンな横浜中央病院が登場します。
病院紹介
JCHO横浜中央病院
TEL
:
045-641-1921(代表)
ホームページ
:
https://yokohama.jcho.go.jp/
外来受付時間
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7:50 〜 11:30(月〜金曜日:午後はお問い合わせ下さい)
休診日
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土曜日、日曜日及び祝祭日
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