ホーム活躍するOB・OGたち  第13回

第13回 「生徒と共に」がポリシー。体育教師として振り返れるものを残していきたい。

文理学部体育学科 昭和60年卒業
日本大学高等学校・中学校 教諭 君塚いづみ先生

県下で多数の卒業生を輩出し、校友会メンバーにも同校出身者の多い日本大学高等学校・中学校で、現在、体育指導をされている君塚先生をお訪ねしました。先生は来年教員生活30周年を迎えられるとのこと。先生が指導されているチアリーディング部OGは本学のチアリーディング部ディッパーズでも大活躍されています。


日本大学高等学校・中学校校舎


旧校舎のころに使っていた「時の鐘」
いまは、校内入口にモニュメントとして飾っています

将来の進路をいつ頃から考えていらっしゃいましたか。

小さい頃は体がとても弱く、すぐ高熱を出し幼稚園を結構休んでいました。小学校に上がった時、他の子と同じように体育の授業に出ていいものか、母はかなり心配したようです。けれども私としては運動が得意だったので、どうしてもやりたいと言って参加しました。当時の担任の先生からは「体は弱いかもしれないけれど、体育の先生に向いているかもしれないね」と言われたことがありました。
実はそんなことはすっかり忘れていたのですが、高校2年の春、将来の進路選択に当たって、体育か美術のどちらの道に進むべきか思い悩んだ時に、あの小学校の担任の先生の言葉を思い出したのです。美大に行くとなるとゼミに通わなければなりません。当時、私はバスケットボール部のスタートメンバーでもあったので、このまま体育の道を志そうと決断しました。
ちなみに私は付属の豊山女子(日本大学豊山女子高等学校)出身です。豊山女子は進学校で、しかも授業に華道や茶道があり、髪型も4パターンと決まっているなど規則の厳しい学校でしたので、私のような運動部に所属している人はちょっと異端児でしたね。
日大への進学は、もちろん付属ということもありますが、親戚関係にも日大出身が多かったので、前々から意識していたかなと思います。それで文理学部体育学科に進みました。

大学時代はどんな学生生活を送られていたのでしょうか。

保健体育審議会に近い、体育系の女子バスケットボールサークルに所属しました。立ち上がったばかりのサークルで大学非公認のため、特に練習場所の確保には苦労しました。体育科の方々が体育館の空いている時間を教えてくれたり、強い高校の練習・合宿に参加したり、時には前日になっても練習場所が決まらないというジプシーのような生活を4年間過ごしました。しかし恵まれた環境でなくてもやる気があれば達成感をもって日々やっていけるということを、そこで学びました。教員としてこれまで専門を離れていろいろなチームの顧問を務めてきましたが、それはこの時の経験が生かせているのかなあと思っています。

大学卒業後はどうされたのでしょうか。

卒業後すぐに専任で明誠高校(日本大学明誠高等学校)の教諭として採用されました。当時の明誠高校は、9割男子1割女子で、男子校に近い感じでした。そこで私は1年から3年までの女子の体育を受け持つことになりました。赴任当初、専任の女性の先生は3人で、私以外の2人はベテランの先生でした。
クラブ指導では最初はバスケットボール部の顧問として女子を専門に指導していました。国体選手がゴロゴロいるトップチームで、他校には負けられないと夜8時過ぎまで練習をしていました。
女性の先生が少なかったので、バスケットボール以外にも校内の合宿所で水泳部と吹奏楽部を同時に引率したり、冬はインターハイに出場したスキー部の合宿と試合に付き添うなど、女子のいる運動部の合宿には全て付き添いました。ほとんど休みがない状態でしたね。
明誠高校では、これまで女性で結婚後も教師を続ける人はおらず、私が第一号でした。当時、結婚して残ること自体がえっ?ということで結構プレッシャーを感じました。その時、先輩の多くの先生方が、「これからは家庭を持ちながら仕事を続けていく時代なので、頑張って道を拓いて欲しい」と言ってくださったので、ただそれだけで、「負けてはならない」と頑張りました。その頃、私を支え励ましてくれていた先生方は、現在、各校で活躍されています。
出産もこの職場で2度経験しました。出産直前まで教壇に立ち、それぞれ夏休み、冬休みと絡めて産休2カ月半で職場に戻りました。妊娠中はお腹の子供の話などを通じて、生徒たちに生きた教育ができたのではないかと思っています。
子育て中は、毎朝、保育ママさんに預けて学校に行き、夕方迎えに行くということで対応しました。上の子の時には、初めての子供だったので、一週間くらいは半泣きしながら、おっぱいも張ってしまうのでトイレで絞り捨てて、授業に出ていました。その後は、主人の実家が横浜なので、横浜の主人の実家に子供を預けてから山梨の上野原まで10年通いました。
今はこうやって語れますが、当時は、ぎりぎりのところでクラブ指導もやっていたし、子育てもあり、大変な思いをしていました。それでも生徒たちに伝えるものがすごくあったかなあと思っています。
産休前までバスケットボール部の顧問をし、復帰後は専門外の女子軟式テニス部、女子バレーボール部の創部に関わり、10年間顧問を務めました。
家庭をもっていながら勤めていることが「ハンディーであるのではないか?」毎日が自問自答でしたが、そんな時に無邪気に「ママお疲れ!!」とすり寄ってくるわが子に救われていたように思います。義父母も含め、私を理解してくれる家族の支えがあったからこそ、今の私がいるのだと思っています。


校門入口でくつろぐ生徒たち


グラウンド

そして現在の学校に転勤されたのですね。

遠距離ということもあり、こちらに転勤させていただきました。当時、男子校から男女共学に変わったばかりということもあって、少しはいままでの経験が発揮できるかなあという、新しいところで力を試したいという思いもあり、こちらにまいりました。
中学生を教えるのは、初めてのことなので非常に勉強になっています。本校では中学から6年間付き添えるので、生徒の成長過程を見ることができ、3年間の高校だけとは違うなと思います。
赴任当初は数名体制で硬式テニス部の顧問をやらせていただきました。この部は部員140名の大所帯でした。その後、ダンス部をつくりたいという女子が出てきたので、同好会を立ち上げてそちらの顧問を兼務し、2年目にダンス部の専属顧問になりました。当時のキャプテンがチアリーディング協会に加盟して正式クラブとして試合に出たいということから、現在のチアリーディング部へと名称変更し、現在に至っています。この部を立ち上げて10年経ちました。先日、10周年記念の演技発表会を行いました。大学のチアリーディング部(ディッパーズ)Aチームに教え子5名が在籍しています。また教え子の一人は日本女子体育大学に進み、いまトップチームに所属しています。

今後の抱負をお聞かせください。

ちょうど来年は、私にとって教員生活30年を迎える年になります。これを一区切りとしてクラブチームもさることながら、体育教師として、また教員としてきちんと振り返れるものをしっかりと残しておきたいなあと思っています。「生徒と共に」が私のポリシーなので、年を重ねてこの先どのくらい生徒の近くにいられるかわからないのですが、それを貫いていければと思っています。

訪問を終えて

かつてと比べ女性の社会進出が進んだとはいえ、現在でも結婚して、妊娠、出産、育児、子育てをしながら仕事を継続させていくのは大変なこと。先生がご結婚された当時は、現在とは比較にならない程、仕事を続けることのハードルが高く、そのご苦労は並大抵のものではなかったと思います。幾多の試練を乗り越えてこられた先生の生き様に感服しました。

学校紹介

日本大学高等学校・中学校
URL : http://www.nihon-u.ac.jp/orgni/yokohama/
住所 : 横浜市港北区箕輪町2-9-1
TEL : 045-560-2600(代表)

活躍するOB・OGたち一覧へ