ホーム活躍するOB・OGたち  第19回

第19回 東都大学野球で首位打者を取ったことが人生の転機となりました

経済学部 平成17年卒業
株式会社横浜DeNAベイスターズ 野球新興部 地域貢献グループ 桑原 義行氏

学生時代にキャプテンとして東都での全勝優勝を牽引、首位打者としても活躍した元プロ野球選手の桑原義行氏にお話を伺いました。桑原氏は現在、横浜DeNAベイスターズ球団の職員として、神奈川県内の多くの子供たちに野球を普及する活動を行っています。

プロ野球選手を目指したのはいつ頃から?

野球は小学生のころから兄についてやっていました。中学では野球部がなかったので、野球に必要な足腰を鍛えるためサッカー部に入部。高校(日本大学豊山高等学校)からは野球部に入り、ここから本格的な野球人生が始まりました。高校1年時よりレギュラーを任せていただき、高校3年の時、キャプテンで外野手を務めました。この時に甲子園に出場しホームランを打ったので、周りの方もプロに行けるのではと言い始めてくれたこともあって、少しプロ野球を意識し始めました。某球団のスカウトの方からも「頑張っていればチャンスあるよ」と声を掛けていただいたこともあり、大学卒業時にドラフト指名されるように頑張ろうと思い、日本大学経済学部に進学しました。

大学生活は?

野球漬けの毎日でした。とにかく4年間は野球で、大学に入りましたので中途半端に学業をするよりは、野球に専念しようと思って4年間やり続けました。
2級上に、いま巨人の村田修一とかヤクルトの館山昌平という先輩たちがいて、主力選手として大活躍していました。この先輩たちに何とか追いつけるようにと、毎日朝から夜まで練習に明け暮れていました。

その結果、東都大学野球で優勝されたわけですか。

東都2部になると、大学野球のメッカである神宮球場で試合ができず、神宮第二球場や大学のグラウンドになってしまいます。神宮第一と第二とでは、プロや社会人球団のスカウトの数も違うし、新聞の扱いも全く違います。ですから優勝を目指すよりも、まず1部と2部の入れ替え戦を避けることが重要なのです。入れ替え戦を避けることができてはじめて優勝を意識するという感じでしたね。
僕が2年生の時までは村田修一や館山昌平というすごい選手がいたので、入れ替え戦で落ちる心配はなかったのですが、先輩たちが卒業し、僕らが引っ張っていかなければいけないとなった3年春に最下位になってしまったのです。ただ最下位にはなったのですが、その時の1部リーグで僕は首位打者を取ることができました。それが自分にとって野球人生の大きな転機となりました。
まず東都大学で首位打者を取れたことで、大きな自信になりましたし、手ごたえをつかむことが出来ました。主力選手として首位打者を取り、なおかつ1部に残れたというのが、僕の野球人生を大きく変えてくれましたね。
ただ「首位打者がマグレ」とだけは言われたくなかったので、3年秋は自分にとって本当の正念場でした。とにかく結果を出す事。そのために、休みの日だろうが、時間があればグラウンドに出向きバットを振っていましたね。
3年秋のシーズンも首位打者こそ獲得できませんでしたが、リーグ最多安打を記録でき、本当の意味で自分を飛躍させることが出来たのかなと思います。

4年生時にはキャプテンを務めたのですね。なにか心掛けたことは?

野球部は部員数が100人以上いる大所帯です。模範になれていたかどうかはわかりませんが、グラウンド整備や雑務もなるべく率先し、逆を言えば文句を言わせないように、練習も人一倍長くやりしました。
ただ教育上、後輩たちにしっかり育ってもらうため、後輩がやるべき仕事はちゃんと後輩にやらせていました。それ以外の部分で上級生がやろうが下級生がやろうが関係ないところは、なるべく率先してやるよう心掛けていました。

キャプテンとして東都での優勝を掲げたのですか?

僕の同期に那須野というすごいピッチャーがいました。彼以外にもいいピッチャーがそろっていたので、優勝を狙えるチャンスでした。
最初は入れ替え戦を避けることを意識していましたが、4勝0敗で入れ替え戦の回避が決まった後は、正直、これは優勝に行けるかもしれないという手ごたえはありましたね。おかげで優勝でき、大学には盛大な祝勝会を催していただき、ビールかけまでやらせていただきました。
その時は、チーム全体に自信がみなぎっていて、どんなに劣勢になっても負ける気はしなかったですね。
チーム全体が優勝に向かって自分の役割を全うする。まさに理想のチームでした。

大学卒業後は?

ドラフトでは8巡目と下の方でしたが、それでもベイスターズに指名していただき、入団させていただきました。当時(2005年)ベイスターズには、同期の那須野がいて、先輩には堤内、吉原、下窪、村田、清水、加藤と日大出身者が7名いました。
選手だけでなく職員にも日大野球部でマネジャーをやっていた方もいたりして、 皆、年が近かった事もあり、遠征先では村田修一さんか清水直之さんが音頭を取り、日大のメンバーで一緒に食事に行き、励まし合ったりしていましたね。

選手時代の思い出に残る出来事は?

一番思い出に残っているのは、2009年8月の阪神タイガース戦でホームランを打ったことです。正直な話、プロに入ってからその年まで、怪我で3回も手術をし、大した成績も残せていませんでした。
2009年は、2006年以来の1軍昇格で、この試合までは、6打席、代打でヒットがなかったのです。2006年時(プロ2年目)の時と自分の置かれる立場も違い、 本当にラストチャンスといった感じでしたね。
7回裏、いよいよ自分の番が回ってきた時、ベンチの皆から「桑原、思い切り振ってこいよ。結果はいいから、悔いのないように行ってこい」と言って送り出されました。その時、「俺はここで打たなかったらもうプロ野球選手として終わりだろうな」そんな予感がしました。だったら最後にバットを3回思い切り振って返ってこようという気持ちで打席に立ちました。
何も考えずにとにかくボールに対してバットを振ったらホームランを打てたのです。感触こそまったく覚えていませんが、打った瞬間頭が真っ白になってダイヤモンドを回った事だけは鮮明に覚えています。
もしここで打てていなければ、その年に引退し、2011年まで選手を続けられなかったかもしれません。瀬戸際の打席でのホームランでした。
入団して2年目に左膝の前十字靭帯断裂をした際、本当につらいリハビリの日々でした。その後、怪我が治り一軍に上がれてスタメンも取り、結構打ったりできた時期もあったため自信をもっていたのですけれど、その矢先にまた膝を再手術することになってしまいました。
その間、下から高卒の若手とか新人が続々と入団してきて、自分に対する焦りや悔しさでいっぱいでした。
それでも腐らずにひたすらチャンスを待って打てたホームランでしたので、その時のことだけは一生忘れないですね。

その後は?

2011年11月に選手を引退し、球団職員として仕事をすることになりました。
引退後、バッティングピッチャーや相手チームのビデオやデータをとったりするスコアラーというグラウンドの選手のサポートの職に就かれる方はいるのですが、球団内の仕事をさせていただけることはあまりないことです。現役中には大した活躍が出来なかったばかりか、手術を3回もさせていただいていましたし、球団には感謝以外ありません。また球団職員になったのはDeNAに変わった時で、タイミング的にも非常によかったと思っています。

球団職員としての仕事は?

神奈川県にあるプロ野球球団として、野球を普及させることをミッションとし、選手OBが地域の小学校に出向いて野球を指導したりするといった活動をしています。実際に今、日本の野球人口は減っていますし、神奈川県は、遠投能力が全国でもワーストクラスに入る位に低いらしいのです。
神奈川県野球連盟からも子供の野球離れが進んでいるので何とか食い止めてほしいという要請もあり、神奈川県全域で、球場に足を運べない地域にもOBが行って野球教室をやっています。

神奈川県下に野球を広めていく仕事なのですね。

それだけでなく、ベイスターズのファン拡大も狙っています。ユニフォームを着て教えるということは、ベイスターズの宣伝にもなります。小学校や少年野球チームの指導以外に小中学生を横浜スタジアムに招待するという活動もやっています。僕らが教えるだけでなく、球場に見に来てもらえる機会を提供することで、子供たちが野球好きになってもらい、ベイスターズを応援してもらえればと思っています。
また、現役こそ離れましたがまだまだ身体には力が有り余っています。
子供たちの前で、実際に打ったり、投げたりしてあげると非常に喜んでくれます。引退した身でも、子供たちに夢を与えることができると日々感じています。

最後に日大校友会へのメッセージを。

日本大学および校友会にどのようなかたちで貢献できるかを考えつつ、校友会の行事にはなるべく参加していきたいです。併せて神奈川県唯一のプロ野球球団であるわがDeNAベイスターズを大いにPRしてファンを獲得していきたいと思っています。

訪問を終えて

毎年、校友会総会の行われるローズホテル横浜は横浜スタジアムの近くにあります。先日の総会では、桑原氏が中畑監督、黒羽根選手、巨人の村田選手のサインボールを持ってきてくれました。神奈川県民として、横浜DeNAベイスターズの活躍を応援したいと思います。校友の皆さんもぜひ横浜スタジアムに足を運んでいただき、一緒に応援して盛り上がりましょう。


※中畑監督、黒羽根選手、村田選手のサインボール

桑原 義行氏プロフィール

生年月日 : 1982年6月15日
出身地 : 東京都
ポジション : 外野手
投打 : 右投げ右打ち
略歴 :
東京都出身
東京都私立日本大学付属豊山高校 第82回全国高校野球選手権大会出場
東都大学野球リーグ 首位打者
東都大学野球リーグ 3期連続ベストナイン
日米大学野球日本代表
2005年   横浜ベイスターズ入団(現横浜DeNAベイスターズ)
2009年   プロ初本塁打を記録
2011年   現役引退
2012年   球団職員

日大豊山高から日本大学に進学。大学在学中には東都大学リーグで首位打者を獲得、ベストナインも3度受賞。日米大学野球日本代表にも選出された。 2004年にドラフト8巡目で横浜ベイスターズ(現 横浜DeNAベイスターズ)に入団。現役中は俊足、強打を活かしたプレースタイルで活躍。また一方で現役生活中には怪我にも悩まされ3度の手術を経験。 愛嬌のあるキャラクターでファンからも親しまれていたが、2011年に引退後より球団職員として野球教室などで子ども達の指導に従事。

会社紹介

株式会社横浜DeNAベイスターズ
URL : http://www.baystars.co.jp/
住所 : 横浜市中区尾上町1丁目8番地 関内新井ビル7F
電話 : 045-681-8883

活躍するOB・OGたち一覧へ