ホーム活躍するOB・OGたち  第52回

【第52回】お客様の顔を見て家づくりをしたい。それが原点だと思っています

株式会社A&A設計室 代表取締役 雨森隆子氏工学部建築学科 昭和53年卒業
株式会社A&A設計室 代表取締役
一般社団法人神奈川県建築士会 副会長
雨森隆子氏

木造住宅を専門に「木」という素材の暖かさ、優しさ、温もりを最大限に活かした安らぎの空間を設計している雨森隆子氏にお話しを伺いました。

日本大学への進学はどのようにして決めたのですか

設計模型

私は宮崎出身で、県立宮崎工業高等学校の建築科を卒業しています。クラスには女性が3人しかいませんでした。家業が土木業だったので、工業高校を出たら地元で就職し、家業を継ぐつもりだったのですが、高校2年の時、担任の先生に大学進学を薦められました。「経済的に余裕があれば大学に行って損はない。4年間は人生の中ですごく大事な期間だから、もし行かせてくれるのであれば、どんな大学でもいいから行きなさい」と。そういう選択肢もあるんだなと思って両親に相談したところ、「今から大学なんて行けないでしょう」と言われました。担任は数学の先生でしたが、「推薦といえども試験があるんだから、補講してあげるからやりなさい」と。母は大反対でしたが、父は自分のやりたいことをやったらいいんじゃないかと背中を押してくれました。

高校には様々な大学から推薦枠が来ていましたが、同級生が志望する大学は九州圏内か、遠くても大阪くらいまで。私はできるだけ親元よりも遠くに行きたいと思い、「日大を志望する人がいないなら私が行きます」と言ったら、「日大を知らない人はいない。行けるならみんなが知っている大学がいいに決まっている。人脈も違うから」と言われ、進学を決めました。

推薦入試の受験科目は数学と英語、面接でした。父と一緒に日向から東京の日の出桟橋まで船で行き、そこから電車で郡山に行きました。船では一等席をとって、父から「お前は一人で勉強しろ、自分は2等席で雑魚寝しているから」と。郡山の駅前の旅館に泊まって、日大行きのバスに乗って試験会場に行きました。試験は自信がなかったのですが、無事に合格できました。専攻は、工業高校と同じ建築学科を選びました。

学生時代はどのように過ごされましたか

家屋の模型

入学後、すぐ近くの下宿を決めたら、下宿先のご主人が、「男の子と同じ棟には住ませられないから、もし嫌じゃなかったら、幼稚園、小学生の女の子3人いる我が家の2階でいいでしょう」と言われました。それで家族同然で過ごさせていただきました。そこに3年間いて、とても居心地のいいお家だったんですが、最後の1年はアパートで独り暮らしをしました。

4年生みんなで集まって夜遅くまで卒論をまとめたりするので、下宿先の家族に迷惑を掛けるなと思ったのと、独り暮らしをしてみたいと思ったので。下宿先のご夫婦から、「月に1、2回、顔を出してこの子たちの勉強を見てね」と言われ、ありがたく家庭教師をやりました。

郡山の工学部は広大な敷地で、キャンパスの中を自転車で移動していました。キャンパスは、森の中にあり、学生用の駐車場が400台もあるところでした。
春になると梅と桜が同時に咲き、新緑の頃にはカッコーが鳴くんですよ。大学4年間は本当に良い環境で過ごすことができました。

サークルは美術部に入り、みんなで福島の観光地にスケッチに行くのがとても楽しみでした。会津や喜多方、いわきに行ったり、毎年5月の連休に安達太良山や磐梯山に山登りをしたり。本当に自然環境が良かったです。建築学科は美術が必須科目なのですが、美術の先生は二本松城址の中に自宅があってとても素敵でした。その先生のお宅に遊びに行ってお茶したりしました。

卒業後は?

卒業する時はちょうどオイルショックで就職先がありませんでした。当時、就職は男子、女子と分けて採用する時代でした。就職に際して、自分はこれから結婚して子育てもするだろうと思った時に、原点は住宅だと思ったんです。それも日本の在来軸組工法の木造住宅がいい。それで設計事務所じゃなくて施工もちゃんとやる設計施工の住宅会社に勤めたいと思いました。設計施工の住宅会社を探す時、東京ではあまりにも人口が多過ぎるので、近県の神奈川と決め、その神奈川の中でも人口の多い横浜かなと。でも横浜の住宅会社を見たら、女子の採用がどこもないのです。大手ゼネコンの女子採用の説明会に行きましたが、募集しているのはオープンルームの案内嬢だったり。当たって砕けるしかないと、片っ端から電話をしたのですが、ことごとく断られてしまいました。男性ならともかく女子は採用したことがないと。めげずに図面を抱えて行ったのが、横浜の土居住宅でした。どうしても住宅をやりたいと面接させてもらい、採用してもらいました。ウチは大卒男子が1,2名であとはほとんど高卒だと言われたので、「採用してくれるなら高卒扱いで結構です」と言ったら、そんなに熱心に言うのだったらと採用してくれたのです。

時代を感じますね

入社式に臨んだ時、大卒が一人いて、よくよく聞いたら同じ日大工学部だったんです。こちらは高卒扱いだったので絶対に負けたくないと思いました。
その入社式の時、事務服を渡されたんです。「え、事務服ですか?技術職ですけど、私。作業服ください」と言ったら、女子用の作業服はないと言われたので、一番小さいのでいいからくださいと事務服を返そうとしたんですが、内勤の時は事務服を着て、現場に行く時は作業服を着なさいと言われました。地鎮祭や上棟式に女性は穢れると言われ参加できなかった時代でした。

入社3年目に社内の先輩で、当時お付き合いしていた現在の夫と一緒に1級建築士試験を受けて合格しました。けれども当時の社内規定で、結婚したら退職しなければならず、結局4年目で辞めざるを得ませんでした。。

その後、どうされたのですか

宮崎県Y邸
宮崎県Y邸

退職後はアルバイトで他の人の図面を書いたり、子育てしながら三井ホームの子会社でも数年仕事をしました。その間、宅建とインテリアコーディネータの資格も取りました。そろそろ自宅を買おうと不動産屋さんに行ったところ、ウチでパートで働いてくれないかと言われ、短時間の条件で働くことにしました。けれども子供の成長とともにどんどん勤務時間が長くなり、しまいには管理建築士になってくれと言われて、子供たちも大きくなってきたのでいいかなと思い、管理建築士になりました。勤めていた会社も大きくなり、駅近くのマンションを買いました。

その頃、夫が投資用に買ったワンルームマンションは他の人が借り上げて賃貸にしていたんですが、買って半年もしないうちに撤退してしまいました。店子を探そうと考えていたら、「もう会社を辞めてもいいんじゃないの」と夫に言われ、「ここを自分のオフィスに使うなら募集しないよ。独立したらいいんじゃない」と救いの手を差し伸べてくれたのです。

こうして設計事務所を開業したのが平成18年でした。その時にある方の紹介で専門学校の卒業生を採用し、2,3年後には夫も加わりました。当初は個人事務所でしたが、会社と仕事をするには法人にした方がよいということで株式会社にしました。
これまでのお付き合いや建築士仲間から声が掛かり、できる範囲での仕事をしています。
コロナ禍で仕事が少なくなりましたが、昨年の秋頃から徐々に戻り、今年は耐震改修、リフォームなどの仕事がきてありがたい限りです。

仕事で心掛けていることはありますか

量をこなせばよいという仕事の仕方はしたくないです。お客さんの顔を見て、対話し、納得しながら家づくりをしたい。住宅は人が休息したり安らぎを得たりする活力の源で、そこが建築の原点ですので、日本の住まいを豊かにするようなお手伝い(設計)ができたらいいな、と思っています。

表彰状

訪問を終えて

喜んでくれるお客様と良い家づくりをしたいと語る雨森様。同社では、将来を見据えた住まいづくりをモットーに、その家で生活する人の立場に立った設計を提案していただけます。新築・増築やリフォームをお考えの方、ぜひご相談されてはいかがでしょうか。

株式会社A&A設計室 代表取締役 雨森隆子氏

会社紹介

株式会社A&A設計室
住所:横浜市港南区上大岡西2-14-12上大岡三和プラザⅡ 101
TEL:045-845-2600
ホームページ:https://a-a056mori.jimdofree.com/

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