【第10回】大学では生涯の師に出会えました。師の教えを胸に診療と医師会活動の両方に全力で尽くしていきます。
8年間にわたり横浜市南区の医師会会長を務め、今年4月に横浜市医師会副会長に就任された鳥山直温先生にお話しを伺いました。先生が院長を務める鳥山医院はお父様の代から地域医療に貢献され、今年開院60周年を迎えます。 医師になられた動機を教えてください。 医師と縁のない家庭に育って医者になる人は、崇高な志とかがあるのでしょうけれど、私の場合、正直に言って医者の家に生まれたので、将来は医者になるのが当たり前という感じで育ってきました。中学までは漠然とでしたが、はっきり意識したのは高校に入ってからですかね。今年、父が亡くなって10年になりますが、開業医である父の後を継いだということになります。 医学部の中でも日大を選んだ理由は? 入学試験では別の医科大学にも受かったのですが、また父親は他大学の出身ですが、日大は卒業生の数も多く、その人柄が良い人が多いことから、卒業後のことを考えて日大を選びました。横浜では横浜中央病院は日大出身の医師だけで運営してきた病院ですので、卒業してからも心強いものがあります。 学生時代の思い出は 授業は毎朝9時から午後5時まででしたが、実習があると午後5時には終わらず遅くまでかかりました。私は家が磯子区の岡村にあるため、朝6時半のバスで磯子駅まで出て板橋の医学部に到着するのが授業開始の5分前でした。通学の車内は凄い混雑でしたが、5年生まで毎日通っていました。病院での実習が始まってからは池袋に下宿しましたが。若かったから通えたのでしょうね。 学生時代、特に印象に残る出来事といえば、生涯の師ともいうべき小林茂三郎先生に出会えたことです。後に医学部長、副総長になられた方ですが、人間的に大きな先生で、先生のお人柄は、我々学生に勇気と希望を与えました。 「君たち、学校の勉強を真面目にやれば医者にはなれるだろう。しかし、ただ医者になるだけではだめだ。この6年間、医学以外のこと、文学でも哲学でも人間性を広げるための勉強をしなさい」とおっしゃっていましたね。 医者の中には、学問や研究はできるけれども人間的にどうかなという、偏った人が時々いますが、小林先生はそういう人間にならないようにと我々学生を導いてくださいました。私は小林先生から生涯にわたって薫陶を受けました。国会で活躍している鴨下一郎さんは私より4年先輩ですが、彼も私と同じ小林門下生です。彼は学生時代から目立っていましたよ。 学部卒業後、そのまま大学院に進み、小林先生の研究室に入りました。先生の専門は生化学ですが、生化学よりも小林先生のお人柄に惹かれて大学院に行きました。医学部の大学院は4年間です。従って学部から数えて通算10年間学生生活を送ったことになります。大学院修了後は、大学の医局に所属し、出張だとかアルバイト先の病院に派遣されたりしていました。 現在の仕事内容についてお聞かせください 平成元年に父が院長を務めていた当院に勤務することになりました。父が南区医師会の会長だったため、休診することが多く、患者さんに迷惑をかけてはいけないということで、私が手伝うことになったのです。そこで当院に移ったところ、診療だけでなく医師会の方も手伝えということになって、本業のかたわら、医師会の活動にも関わることになりました。35歳くらいからですね。 父は元々産婦人科医だったのですが、内科も学んで開業したのです。60年前の開業医は、今と違ってそれほど専門分化しておらず、内科でも外科でも、それこそ耳でも何でも診たのです。 最近は、慣れないことをやって何かあると訴訟になってしまうので、専門外のことに手を出さなくなりました。 私の専門は内科ですが、南区の会長だった時は、交替で休日診療所に行くと、小児科も診ていました。それなりのベーシックなところはわかっていますから。しかし、いまの若い先生は、専門が内科だから小児科は絶対診ないという感じです。特に小児科の先生は少ないから大変なんですよ。 昔は、多くの開業医で「内科・小児科」という看板を出していました。いまこのような看板を出している医院はあまりないですね。いまは内科なら「内科」、小児科なら「小児科」ですね。 私は開業医ですが、ウチでは循環器しか診ませんでは、ちょっと通用しません。胃カメラもやれば循環器もやります。私の弟も医者で、専門は呼吸器科ですが、彼も血圧でもなんでもやります。 今年4月から横浜市医師会の副会長になり、横浜市医師会保土ヶ谷看護専門学校の校長も兼任することになったため、そちらの仕事が忙しくなり、火・水・木の午後は、休診が多くなってしまいました。 現在、横浜市内には医師が3,400人います。医師会は、基本的には学術団体ですが、行政からの委託事業や医師でなければできない各種の検診事業とかを行政から依頼されるのです。私は、横浜市医師会の中で地域医療対策を担当しています。万が一横浜で震災があった時、市と協力しながら災害医療対策を担うのが私の役目です。 先生が院長を務める鳥山医院についてはどうでしょうか 先代は折に触れ「患者さんには親切に」と言っていました。この言葉が鳥山医院のモットーですね。ただ「患者さんには親切に」と思いつつも、今は医師会の仕事で休診して患者さんに迷惑をかけてしまうことが私の悩みです。 医療訴訟が頻発した30年ほど前から「医療におけるコンセンサス」が提唱されるようになり、医師は患者さんに対し、診断結果と治療方針を説明するようになりました。とくに病院では治療に際し、同意書を取るようになってきました。その一歩進んだものがセカンドオピニオンです。最近増えてきましたね。 俗っぽい言い方をすると「明治生まれの医師は患者より先生が偉い、大正生まれは同等、昭和生まれの先生は患者さんの方が偉いのだ」というように医師と患者さんとの関係も時代と共に変わってきました。
校友会に参加されて感じておられることは 校友会活動に熱心な人がいる一方で、興味のない人は全く興味がないといった感じがしますね。これは医学部同窓会も一緒です。校友会はいろんな学部出身者が多くて幅広い方がいらっしゃるのでそれはそれで楽しいと思います。その中で、校友会に参加している医学部OBは少ないかもしれません。その理由は医者の世界の閉鎖性といえるかもしれませんが、それだけでなく、多くの医者が夕方7時過ぎまで働いているからではないかと思いますね。それでOBの医師を校友会に誘っても平日の午後6時からの会というと「そんな早い時間に行けないよ」と言われてしまいます。医師の会合は7時半からというのが多いのです。 医学部同窓会は土曜日に開催しているのですが、それでも夕方7時まで診療しているので行けないという若い先生もいます。 ところで、私が南区の医師会長だった時、横浜市内18区の内、日大出身の区の医師会長が3人いました。副会長は何人もいます。神奈川県医師会で副会長を務める菊岡正和先生(川崎)も日大出身です。日大出身の先生は大体、人が良く他人を押しのけて何かしようという人は昔からあまりいません。敵がいないだけ、人から推されて、という先生が多いような感じがします。医師会の仕事は、自己犠牲も払わなければなりませんが、「それでもいいかな」という人間的な余裕というものもあるのではないかと思います。 これから目指しておられることは 本業の診療の方は継続しつつ、今年から横浜市医師会の副会長としての仕事にも携わることになったので、両方共一所懸命やって日大の名を汚さないようにしなければ、と思っています。
訪問を終えて 鳥山医院は昭和29年の開院以来「患者さんに親切に」をモットーに専門分野にとらわれず、かかりつけ医として、全身の健康管理に気を配り診察をしています。医療だけでなく介護、福祉の相談にも応じています。高齢者の多い南区にあるため、通院困難な方には往診もしているとのことです。南区周辺にお住まいの方は、お気軽にご相談下さい。 医療法人社団仁桂会 鳥山医院
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